2020年2月28日金曜日

無用の用


世の中には一見無駄に見えるものが沢山ある。

だがその一見無駄に見えるものも実は役割や必要性があるという意味である。

例えば、自転車のチェーンの「たるみ」。
一見、必要がなさげだ。
チェーンはたるみなくピンと張らせていいではないかと。
だが、このたるみを無くしてピンと張った状態にしておくと急にペダルを踏んだ時にチェーンに一気に力が加わり切れてしまう可能性が高くなる。

また、レールとレールの間の隙間。
これは夏になると日差しにより暖められた鉄のレールが伸びることを想定し設けられている。この隙間がないと伸びた際にレールが曲がってします。

例えば私が研究テーマとして扱う「スポーツ」も人々が生きていくうえで必ず必要かといえば、「衣食住」に比べればその必要性は低いといえるだろう。
だが、スポーツがなければ人間は日常の憂さ(ストレス)を晴らすことができずに、様々なトラブルを増やす原因になるかもしれない。
また、仕事や外交においてもいきなり本題に入ってはお互い緊張した状態の話し合いとなり実りある議論に結びつかないことだってありうる。

このように一見無駄に見える事象や事柄でも役割や必要性があるという意味が「無用の用」である。

現代の社会では経済合理主義が蔓延し、効率性を求めるあまりにこの一見「無駄」に見えるものまで無くしてしまおうという風潮がある。

例えば、教養や基礎研究もその一つと言えるだろう。

一時の効率性という「正しさ」によりそれらが淘汰されていく。

しかし、「正しさ」でも述べたが、「正しさ」は居住エリア(国や地域)、時代によって変わってくる。

一見無駄に見える研究が、新たな薬品の開発や科学技術の発展につながる可能性もある。

したがって、我々の日常においても一見無駄に見えるもの・ことであったとしても、安易に合理化するのではなく、その事象・事柄を物理的、エリア的、時間的、世代的など多面的にみる余裕が必要ではないだろうか。